「インクレディブル・ファミリー」感想!!本作が主張する、観客への最大の皮肉とは…!?(深読みし過ぎ注意!!)

インクレディブル・ファミリー」(2D 吹替)
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超能力×家族
この映画、このシリーズのなにがキモって、超人一家ってことですよ!!正直、ヒーロー映画でよくある”能力を使いこなすまでの葛藤”ってつまらないものも多いと思うんです。でも、この映画ではその葛藤を家族の成長として描くことで観てて楽しいし、飽きない!!
しかも、家族それぞれに違う能力があり、家族で共闘するので最近流行りのチーム物としてもかなり面白い。なんというか、ずるーい映画ですよねw面白いものを2つ掛け合わせたらベストマッチしすぎて2つの面白さのポテンシャル以上に面白い!!




ジャック・ジャック
そんな家族映画な本作でも随一に輝いていたのがジャックジャック。もうね、可愛いとしか言いようがない。しぐさや能力、声などなど何をとっても。最初はジャックジャックを押し付けあっていたのに、最後には秘密兵器として活躍する。最高じゃないですか!!!ちなみに、特に好きなジャックジャックの能力は分身ですwあんなわらわら増えたら可愛いし、ちょっとキモくて最高に良かったw





インクレディブルファミリー
一方で、他の家族の物語も今回は前作以上に面白かった!ヴァイオレットの反抗期や、ボブの家事への苦労、そしてヘレンの仕事復帰。単純に、父=仕事、母=家事という構図をひっくり返すことで、14年前にはなかった現代の家族観にアップデートされているし、超人だけどちゃんと血の通った人間だってこともわかるんですよね。ピクサーは本当に、上手いなぁ…
ダッシュは相変わらずでしたけどねw






スクリーンスレイヴァー
さてさて、ここからが本題。
今回の敵であるスクリーンスレイヴァーは「画面(スクリーン越し)にヒーローの活躍を観てるだけのお前らは、ヒーローに依存し自らの成長を辞めて堕落している」と語る。誰かの仕事ぶり、活動、そしてテクノロジーの表層だけしか見ずに、それに頼り切る現代への批評は、同じくピクサー作品「ウォーリー」に似たテーマ設定だと思う。

「ウォーリー」では、テクノロジーを利用し過ぎた人類が、生きる活動全てを機械に任せてしまい、怠惰的になってしまった近未来で、ウォーリーたちの活躍により少しずつ人間性を取り戻していき、最後には人類ではなく人間になるお話。でもこの映画、ラストに衝撃の展開が待っている。それは、劇中に出てくる人間を怠惰的にしてしまうほどのロボを発明した企業ロゴでこの映画は終わるんです。そう、「ウォーリー」を観て楽しみ、人間性とは何かを考えた、つまり映画という娯楽を楽しんだことさえも、この企業が人間を怠惰的にするための戦略だったんです。観客であるあなたは、”楽しんだ”のではなく”楽しませられた”んです。。。


そんな、ウォーリーが描いた皮肉以上に、本作は観客を皮肉っている。
スクリーンスレイヴァーの主張は、ヒーローに頼り切っている市民たちへの批判。この主張を打ち負かすには、例えば最後に操られたヒーローたちを市民たちが助けるような、持たざる者であり頼り切っていた者である市民が立ち上がること。でも本作ではそんなラストではなく、もっと単純に、インクレディブルファミリーとフロズンという持つ者たちによる解決により、市民が再び助けられて終わる。
そう、本作中では、スクリーンスレイヴァーの主張には一切答えていないんですよね。
それはなぜか。もちろん、ピクサーなら上記したような終わり方も考えていたと思うし、それをしなかった理由もちゃんとあると思う。

スクリーンスレイヴァーの主張は、我々映画を観に来た観客へのメッセージでもある。スクリーンの前で、ヒーローの活躍を観て応援し、笑い、そして楽しむ。自分たちが誰かにとってのヒーローになろうとするんではなく、ヒーローの活躍を応援するだけ。映画という娯楽に楽しまさせてもらうだけで、何も自分は成長していない。続編だったり、有名俳優が出ていたり、莫大な予算がかけられてたり、大きな宣伝をしたりすれば、それが全くメッセージを含んでいなかったり、劇中でちゃんとお話が終われていなかったりしても、今の観客は集まり、何も考えずに楽しまされてしまう。それは本作が、スクリーンスレイヴァーの主張を全く解決していないのにここまで評価され、観客を動員しているように…。

つまり、この映画を何も考えずに楽しんだ観客を、そして今の映画業界を皮肉っている。”楽しまされる”だけのために、娯楽を使うな。”楽しむ”ために娯楽を使え、と。





次回は、あの超有名ドラマの映画!?(ドラマは一切観ていません…)