「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」感想 さようなら、全てのエヴァンゲリオン。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」

 

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はじめに

当ブログでは考察等はほぼありません。率直な感想であること、完全なネタバレをしていることをご留意ください。

 

 

 

 

 

あらすじ

ニアサードインパクトにより、赤く染まった世界。

最後の抵抗であるヴィレはパリに降り立ち、旧NERV支部の奪還を目指していた。無数の敵が彼らの作戦を阻止するべく立ちはだかるも、マリが操縦するエヴァ8号機の奮闘により奪還作戦は成功する。

一方その頃、シンジ、レイはアスカに連れられ赤く染まった街を放浪していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Qという絶望

本作の前作に当たる「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は新劇場版シリーズでも異質な「なんなんだよもう…」を繰り返す作品であり、ラスト31分で起こる怒涛の攻防戦に熱くなる作品であり、何よりシリーズで最も”絶望”が似合う作品だったんじゃないでしょうか。自らの手で起こしたニアサードインパクト、救えてなかったレイ、そして変わってしまった仲間たち。そんなあまりの変貌ぶりに本作の公開前には、序や破とは異なる世界線の話なんじゃないかと言う考察さえ飛び交うほどでした。しかし本作は、しっかりとQのすぐ後からお話が始まり、腰を据えてQまでに何が起こっていたのかを探求する作品となっていました。

真っ赤に染まった世界でレジスタンス的に戦うヴィレの面々。冒頭でのパリでの戦闘シーンから始まり、当然といえば当然なのかもしれませんが本作は前作から8年、アニメシリーズから25年という歳月で進化した技術がこれでもかと投入されているのを感じられる圧巻の戦闘シーンが続きます。正直私は、アニメーション映画はIMAXサイズで鑑賞するよりも通常の映画館サイズの方が迫力を感じとりやすく思っていたんですよね。その理由がどこから来るものかは言葉にするのが難しく、伝わりづらいと思うのですが、ある程度抑制されたスケールだからこそアニメーションは光るんだと思っていた。しかしシンエヴァは違いました。IMAXサイズのスクリーンをこれでもかと使い切って描かれる世界観に、縦横無尽に動き回り敵とぶつかり合うエヴァンゲリオンやヴンダー。自宅のテレビよりも、通常の映画館よりも、IMAXでこそしっかり迫力ある映像を楽しめる。

 

 

 

 

成長を促すシンジ

Qという絶望の後、それでもなお続く終わりの見えない戦いが続く世界で、シンジ、アスカ、レイは第3村にたどり着きます。ここでエヴァシリーズではじめて、”人々の営み”が描かれます。そこではサードインパクトで傷ついた人々が手を取り合い懸命に生きてきた14年間を感じさせ、その経験から人々はシンジやレイにさえ優しく手を差し伸べる。シンジとレイ、アスカは人から優しくされる尊さ、仕事をする喜び、そして生きる理由をここでついに学ぶんです。そんな学びからシンジは、他人の肩を叩くことができる人間、人の成長を促すことができる人間についに成長する。

アニメシリーズでは考えられない成長を遂げたシンジは、「エヴァンゲリオン」という作品で同じく描かれ続けてきたアスカ、レイ、そしてカヲルを理解しそれぞれの成長を促し始める。ドラえもんでもクレヨンしんちゃんでも、キャラクターが成長仕切ってしまうことは物語の終わりを意味する。だからこそ、長く続く作品であればあるほどキャラクターは成長出来ない。ましてエヴァンゲリオンは、新劇というリセットをしてまでキャラクターの成長を止めてきた作品。そんな作品の主人公であるシンジが、旧劇も新劇も、白綾波も黒綾波も、惣流も敷波も、エヴァもヱヴァも関係なく包み込み、成長させていく。全てのキャラクターが成長した先に待ち受ける、ゲンドウという最後の”キャラクター”。

 

 

 

さようなら

ゲンドウは、このエヴァンゲリオンという物語において最も重要な人物である一方で、その心情はほとんど明かされないキャラクターでした。シンジとゲンドウがわかり合う時。その時こそ、エヴァンゲリオンは完膚なきまでに終わるのです。そしてラスト、シンジとゲンドウが対等の立場を持って対峙することに。ここでゲンドウは遂に、自らが生きてきた人生を語り始めるのですが、この生き様こそ庵野秀明なんです。シンジ=庵野秀明の投影であることは周知の事実でしたが、その父親であるゲンドウもまた、世間的な”大人”になった庵野秀明の投影だった。シンジ=ゲンドウであり、ゲンドウが目指すユイ=シンジだった。両者がそれに気づいた途端、アニメーションで描かれてきた「エヴァンゲリオン」という作品から一つ、また一つと要素が抜けていきます。まず質感が失われ、次に世界観が失われ、カラーが失われ、アニメーションが失われていく。ラスト、全てが分解され、実写とアニメーションが組み合わさったセカイにシンジたちは降り立ちます。シンジとマリ、ケンスケとアスカ、カヲルとレイというファンの想定をレーンから外れた彼らはもうエヴァンゲリオン」のキャラクターではなく、その列車から降りたただの人物であることが象徴され、「エヴァンゲリオン」というアニメーション作品は現実というセカイに溶けてしまう。

電車から降りたシンジたちは駅を飛び出し、カメラはどんどん上空に。このシーンはまるでタランティーノの「ワンスアポンアタイムインハリウッド(2019)」を彷彿とさせるようなシーンなんですよね。ワンハリも同じくどんどんカメラが上空に上がっていってエンディングを迎えるんですが、このシーンは映画だから出来る、映画でしか出来ないことを成し遂げて現実と映像が混ざり合った不思議な世界へと連れて行かれるような、映画という魔法が詰まったシーンになっていると思うんです。それを踏まえてこのシンエヴァのエンディングを見ると、まさに現実と映像、アニメーションが混ざり合うんです。アニメーションで描かれるシンジたちが駅を飛び出しカメラが俯瞰で離れていけばいくほど、現実とアニメーションの境目が曖昧になっていく。「エヴァンゲリオン」というアニメーションが、少しずつ少しずつ溶けていってしまう。

まさにこれこそ、”さようなら”以外の何者でもない大団円。

ありがとう、そしてさようなら。全てのエヴァンゲリオン

 

 

 

最後に

パンフレットは劇中の名シーンや出演陣から監督まで大ボリュームなインタビュー、絵コンテまで入った超豪華な内容でした。

エヴァンゲリオンという時代が終わる。をやってのけた庵野秀明やこの作品に関わった全ての人に”ありがとう”と”さようなら”を伝えたくなるような大傑作でした。