「キャッツ」感想 ”素晴らしい、全て間違っている。”

「キャッツ」(2D字幕THX)ãã­ã£ãããã®ç»åæ¤ç´¢çµæ"

 

ビジュアルなんてもう気にならない。
それほど圧倒的な、まさに“映画体験”でした。

この映画には、常人の倫理観は通用しない…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猫人間

公開前の海外での評価が凄まじかった本作。あの評価自体は、ちょっと言い過ぎというか加熱してしまっていた部分もあると思うんです。だけど、やっぱり本作のビジュアルは怖い。というか不気味。
顔のパーツ、姿勢は人間なのに、サイズ感、耳、そして仕草は猫。この組み合わせが、絶望的に合っていない。なぜなら、本作はこの猫×人間というコンセプトをそもそも作り手が信じられてないからだと思う。作り手が、人間でも猫にも見えるような、細部にまで拘ったグラフィックづくりを否定して、“舞台キャッツの映画化だから許してくれるでしょ”と言わんばかりに猫×人間を作ることを放棄している。舞台なら目の前で実在する人間が猫の格好をしているからそもそも実在感を発揮できているんです。だけどそれを映像として映し出すなら、どうしても実在感を出すための工夫が必要。それは例えば、毛並みを動かしたり、眉毛を隠したり…。そんな工夫もしないで、人間に服も着せないで踊らせるから、ビジュアルがなんだか“見ていいのか悪いのかわからない”気持ちになっちゃうんですよね。特に、テイラースウィフト演じるボンバルリーナが踊るシーンは、やらしいと思っちゃいけないんだろうけどどうしてもやらしく見えちゃう。まるで中学生の頃に通販雑誌の下着のページを見てドギマギした頃のあの気持ちに、この映画はなってしまうんです。誰がそんなの楽しく見れるんだよ!!
この映画に対するビジュアルの批判は、あらゆる工夫を怠ったために起こった、必然的な批判だったと思う。

 

 

 

 


歌って!踊って!

でもそんなビジュアルは、次第に慣れてくる(麻痺)んです。そこからは、現行のハリウッド映画の中でもかなり質の高い歌唱力を遺憾無く発揮してくれる。特に、超有名な「Memory」や「Skinbleshanks:The railway cat」などの歌唱力は圧巻で、これはTHXという超音質の良い映画館で見て正解でした。
一方で、踊りはかなり杜撰に感じてしまった。それは、踊りが下手だからとかではなく、なんとも踊りの写し方が変なんですよね。集まった猫みんなが踊ってるシーンなのにドアップでその曲の主役しか映さなかったり、カットを過剰に割るから踊りがひとつなぎに見えなかったり。極め付けは上記した「Skinbleshanks:The railway cat」での橋の上で踊るシーン。ドアップでスキンブルシャンクスを映していたと思ったら、突如かなり遠い位置から踊る彼らを映したりする。これがとんでもなく間抜けに見えて、曲は良いのにがっかりしてしまいました…。

 

 

 

 


崩壊する倫理観

歌と踊りメインである本作ですが、ビジュアルとか絵面とかそういうのの前に、そもそも本作内でのルール、倫理観がぶっ壊れているのも気になったんですよね。序盤、レベルウィルソン演じる肥満猫が歌う「Jellicle songs for jellicle cats」のシーンでは、彼女が指導した(?)ネズミとゴキブリたちが踊り出す。このビジュアルだけで言いたいことがないこともないですが、彼女の指示通りに踊るゴキブリたちを、まさか猫たちは食べるんですよ。しかも歌にのせてヒョイヒョイ摘んでいく。
…………え“!?

他にも、この映画の主軸でもある天上に行くための舞踏会の設定も、冒頭から「天上界に行けば生まれ変われるんだ!天上は空のうんと上にあるのさ!」とかいうから、天上界=死をどうしても連想しちゃうんですよ。でも同時に、ああこの設定が後半でひっくり返るのね、と前フリのようにも感じるんです。
ですがこの設定、まさかの全て“マジ”なんです。しかも、悪い奴と連むようになって嫌われ者になったグリザベラが選ばれる。「さぁ、嫌われ者だった自分を捨てて生まれ変わっておいで!」とみんなで歓迎するシーンは、いじめっ子がいじめていたことをすっかり忘れて、いじめられっ子に同窓会で話しかけてくるような、エグいエゴを感じたのは私だけでしょうか…。この映画、そもそもの倫理観がやばい。

 

 

 

 

意味不明なら4つのラスト

そんな、有って無いようなストーリーの歪さもさることながら、この映画で1番酷いのはラスト。4つものシークエンス全てが悉く「??」となってしまう。
1つ目は、上記したグリザベラ万歳!のシーン。
2つ目は、マキャヴィティに囚われていた組の脱出シーン。あの、とんでもない蛇足感はなんなんだ。
3つ目は、誘拐された長老ディトロノミーを助けに行くシーン。魔法のように瞬間移動するマキャヴィティを追いかけるために、なんと猫たちはドジっ子手品師ミストフェリーズに魔法を使うように強要する。「試してみて!」と目をキラキラさせてお願いする主人公も怖いけど、それを応援する猫全員がもはや狂気のように見えてくる。どれだけ頑張っても魔法は(当然)使えないミストフェリーズ。そんな彼を見て猫たちがとる行動は、なんともっと応援する!!さぁ、お前はすごいんだ!!やってやれよ!!!と、集団圧力的にグイグイ強要される恐怖。あんな集団の仲間にはなりたくないよw
最後に4つ目、これは本当にラスト。長老ディトロノミーが、なんと第四の壁を超えてこちらに話しかけてくるんですよ。色々説明してますが、要するに「猫大事にしてね!」ってことなんだけど、ここでもう頭はパンク状態に。こっちの存在を知った上で、少なくとも長老は歌ったりしてたの!?とか、こっちの存在があるってことは俺たちが知ってる猫とこの猫の完全な隔離はなんなんだ!!とか、どんどん疑問が湧いてきてしまう。
でもそんなの関係ない!猫を大事に!犬はどうでもいい!!それがこの映画なんです!多分!

 

 

 

 


--『映画といきもの』--猫と生態系

猫は、古来より愛玩目的、狩り目的などで愛されてきた。しかし、そんなイエネコたちは実は生態系を揺るがす動物たちなんです。
国際自然保護連合(IUCN)が指定した世界の侵略的外来種ワースト100に選ばれている他、日本生態学会あ指定した日本の侵略的外来種ワースト100にはノネコの他にもネコ目が5種もランクインしているほど。ではなぜ、あんなにも小さくて可愛い猫が生態系を揺るがすのか。
イエネコは、小さくてもネコなんです。ライオンやトラなんかと同様に肉食動物である彼らは、離島などの小さな生態系内では頂点に君臨することもある。生態系の頂点が、外から来た生物になってしまうとどうなるのか。飛ぶことのできない鳥や虫、さらにはヘビやネズミなど猫の狩猟対象は多岐にわたる。これら全ての固有種が、愛玩用に連れてこられた猫により狩られる者になってしまう。小さな生態系において、イエネコは恐ろしい力を持った脅威だったのです。猫をペットとして可愛がるにしても、むやみに外に出したり、それこそ本作のように捨ててしまうなんて以ての外。猫を飼うことの責任感として“猫を大切にしよう“という気持ちと同じように”生態系を守ろう“という気持ちも持って欲しい、と私は思います。

 

 

 


最後に

本作では、猫は自由に暮らしたいんだから猫をぬいぐるみみたいに扱うんじゃなくて1匹の生き物として扱って!みたいなメッセージが最後に込められていました。それは本当に大切なことだけど、ネコを飼うということの本当の責任を、より多くの人にわかって欲しいとも感じる映画でした。自由が好きなネコだからこそ、自由にさせ過ぎるのは良くない。この映画を見て、イエネコを捨てる人は少なくなると思います。だけど、イエネコはちゃんと管理してあげてください。それが、猫のためでもあり、生態系のためでもあるんです。
ぜひ映画館で鑑賞して、そのあとにはしっかり猫について調べて見てくださいね。