「アリー/スター誕生」感想!!!”スター”とは何か問う、音楽映画の新たな形!!

「アリー/スター誕生」(字幕)
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近年流行り出した音楽映画の新たな試み。それは、本物のミュージシャン、それも超有名なスターを主役にしてしまうという、ある意味反則技だった!!

本日のお品書き
・ライブシーン
・”スター”とは何か
・ジャクソンの最後
・最後に




ライブシーン
音楽映画の魅力って、やっぱりライブシーンですよね。本作で、もちろんアリーを演じるレディー・ガガは圧倒的な歌唱力で圧巻のライブシーンを作り上げていましたが、それに負けず劣らずだったのが監督でもありジャクソンを演じたブラッドリー・クーパー。私は音楽に詳しくないので素人目になってしまいますが、レディー・ガガが歌唱力で圧倒するのに対して彼は演技力で圧倒するんですよね。ライブシーンで、歌って、弾いてる姿はカッコよくも、どこか虚無的なんです。でも、それを凌駕するスター性をかもし出すことで、彼のライブシーンは演技で持って行っていくんですよね。両者は、全く違う方向でライブシーンを演出しているんです。もちろん、ブラッドリークーパーは歌唱力では敵わないし、レディーガガは演技力ではブラッドリークーパーに敵いません。しかし、そのそれぞれの魅力を補い合ってるようにさえ見える2人のライブシーンは、だからこそ圧巻だし、2人が共にいることに説得力を持たせている。




”スター”とは誰なのか。
ジャクソンの冒頭の歌の通り、世間に向けて”スター”になることは、孤独を受けいれることだと語られる。孤独に拘り周囲を寄せ付けないことで自分を貫き、自分を晒け出すことが出来るようになり、スターとして輝き続けられる。ジャクソンは片耳が聞こえない、耳鳴りがするという煩わしい症状に加えて、ファンにちやほやされることに疲れ、孤独感や虚無感に押しつぶされそうな自分をなんとか保つために酒やドラッグに溺れていたんですよね。そんな彼の前に、スターになる素質と、毎日の充実感を併せ持ったアリーが現れる。自分と真逆の存在ともいえるアリーに溺れていく自分が、孤独を拒絶し始めた自分がどんどん嫌いになってしまう。孤独だけが、自分をスターとして繋ぎとめてくれていたのに、それが解かれようとしてるから。しかも、アリーはマネージャーの意見を取り入れたりダンサーを導入したりと自分(ジャクソンが思うアリーの自分)を貫いていないのにスターになっていく。

そんなジャクソンだが、やっとあることに気づくんですよね。世間に向けてのスターになるんじゃなく、彼女にとってのスターになることこそ、本当の意味でスターになれることなんだと。アリーが変わってしまったんではなく、自分が変わることが出来てなかったんだと。
この映画は、アリーがスターになる話であるのと同時に、ジャクソンが本当のスターに昇華する話なんですよ!!!





ジャクソンの最後
そんな彼は、最後に彼女のスターであり続けるために、彼女の足を引っ張ってまたスターから堕ちてしまわないように、彼はあの決断をする。ここ、ちょっとわかりやすいぐらいの伏線が利いてるんですよね。ベルトを持ち出すんですけど、そのベルトで最初に自殺しようとしたのは彼が13歳のころ。そう、13歳といえば、父が亡くなり、兄の手からも離れていたころ。ジャクソンは冗談のように「天井ファンが落ちて助かったけど、ファンは何日も置きっぱなしだったよ。」と語りますが、もしかしたら、ジャクソンが死を覚悟した理由こそ、孤独だったのかもしれません。実は父が死んだ直後で、兄もいないこの状況で孤独に押しつぶされそうになって、彼はベルトを手に持った。死と隣り合わせになることで孤独を貫くことに目覚めて、そしてスターになった。でも、ジャクソンの最後は13歳のころとは真逆なんです。スターになるためではなく、スターとしてあり続けるための最後。
ここで、劇中では首を吊ってる絵も死んだ絵も見せないんですよね。これが良い。スターであり続けようとしたジャクソンの死にざまなんて、意味を成さないんです。
そんな彼の最後を乗り越え、アリーは本当のスターになる。孤独を知り、痛みを知り、そして充実感を知ったことで。





最後に
この映画、映画界のスターであるブラッドリークーパーだからこそ撮れた、本当のスターとは何かを問う映画だと思うんです。スターが誕生するには、才能よりも、技術よりも、何を貫くか。人より貫き通せた者こそがスターになるし、彼もそうやってスターになったんでしょう。”スター”とは何かを、真正面から描いた作品でした。是非、映画館で2人の”ライブ力”。そして”スター”とは何かを感じてください!