「ザ・スクエア 思いやりの聖域」感想!!過剰な不快感に、あなたの心が試される…

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予告編を観たときからずっと気になっていた本作を、やっと観ることが出来ました…
小さな映画館でしたが、半分ぐらい席は埋まっていたので結構話題になってるのかなぁ



不快、不快、そして不快
ザ・スクエア』という、差別意識から乖離した世界を作り出した芸術作品に惚れ込み、それを展示することに決めたクリスティアン
そんな彼を、そして観客を待ち受けていたのは、過剰な不快感だった……

憎悪、復讐心、不協和音、喚き、羞恥心、怒り、不快感、後悔……・そんな負の感情がつるべ打ちされる。会議中に赤ちゃんは泣いてるし、携帯の着信音は無駄に大きいし、ディスコっぽいシーンは過剰に音が大きいし、障がいを持つ人がプレゼンを邪魔するし、親切をしたら盗みを働かれるし、盗人を懲らしめようとしたら他人の怒りを買うし、ガキが喚き散らすし、しかもそのガキの言ってることが正論だし、無駄に長くセックスシーンを見せつけてくるし、そして罪を許してはもらえないし…
こんな不快感を味わってもなお、『スクエア』があると信じられるのか。人間、誰しも不快になってしまうものなんです。この映画では、そんな心の隙をグイグイ攻めてくるんですよ。




差別と違和感
近年、差別意識というのは国際的に排除されてきている。まだまだ差別はあるけど、それをいけないことだと人類の多くはわかってきている(わかろうとしてきている)。だからこそ直面するのが、不快感。
例えば、電車の中に赤ちゃんを抱いた母親が乗ってきて、赤ちゃんがわんわん泣き叫ぶ。赤ちゃんだから仕方ない、誰も責めることはできない。しかし、誰しも大なり小なり不快に思うだろう。
もっと踏み込んだことを言えば、障がいを持つ人が電車内で叫んだりしていると、誰も文句は言わないだろう。当たり前だ。だけど、不快には思う。
でもこれって、”赤ちゃんだから”とか”障がいを持っているから”不快になっているんじゃない。自分が思っている”普通”とは異なる物が入ってくることが不快なんです。これは当然の感情だと思うんです。
しかし今の世の中、これを言うことは躊躇われています。そんなこと言ったら、差別だぞ!と。


でも、違う。この不快を”認める”ことこそ、現代の差別意識に必要なことだと思う。不快に思ったことを隠し、触れないように接することは容易かもしれない。だけど、不快と感じたことを認めるからこそ当人の側に立ち、考え、支えることが出来るんじゃないでしょうか。

劇中、助けを求めたクリスティアンを助けてくれる人は、なかなか現れない。みんな、眼を反らす。
もっと印象的なのは、やはりモンキーマンのシーン。パーティ会場に突如、異物が入り込んだ時の会場の”無言の不快感”。誰も、不快であることを率先して認めないが、不快感で、不安や恐怖で会場はいっぱいになっている。絡まれたり、けがをしそうになる人が出てもみんな、俯き目を背ける。そんな不快感がピークに達したときに起こる暴力…。不快感を内包し過ぎることが差別意識の解消なんていう結果をもたらすわけがないんです。誰もが、我慢の限界に達するだけなんです。

そしてクリスティアンはラストにやっと、自分の不快感の原因を認め、そして謝罪に向かいます。普通、ここでクリスティアンは不快感から救われるはずだと思うんです。でもこの映画は本当に意地悪。
子供とその家族とは会えず、しかもあの後どうなったのかもわからない。もしかしたら、と最悪の事態さえ考えてしまうラスト。もしかすると、クリスティアンはこの不快感と一生付き合うことになるのかもしれません。不快を脱し、『スクエア』の理念を達成するタイミングを逃してはいけないんです…。




スクエア
劇中、上記の不快感からの脱出=人を差別、侮蔑する意識からなお解放 が成されるシーンは、正方形が映し出される。
誰もが、スクエアの内側にいる、差別なんてしてない人間だと自負していると思うんです。けどその実態は、スクエアの中で起こる面倒事、人を支えたり、助けたりすることを無意識的に避けてしまう。つまり、意識的にはスクエアの中にいようとしているけど、無意識的にスクエアの外にいてしまう。
そんな線引きに気づかされる映画でした。

スリービルボードより、一層ブラックなジョークと不快感を感じられる、傑作だと思います。映画館で、色んな観客と気持ちを共有しながら観るべき映画だと思うので是非映画館へ!!


※当然ですが、本ブログの内容は障がいを持つ人、貧富の差がある人、その他あらゆる人に対する軽蔑、差別的思考について一切肯定していません。